2009年5月26日火曜日

文章日本語の重宝さ

最近想うことの一つに
文章日本語の許容量の深さがある

文章日本語は言うまでもなく
あいうえおの50音順の言葉の
組み合わせである

その50音の言葉の組み合わせが
我々が日常読み書き話している日本語である


日常の我々の生活は
その日本語を介して
お互いの意思疎通を図っている


そんなことは今更ながら
驚くこともないが
さりとて改めて考えてみて
やはり驚かざるを得ない

たとえば
西洋の歴史的事情に関しての
文章を当然ながら日本語の文章で読む

そして我々はその内容をおぼろげに理解する

日本語の羅列にも関わらず
我々の脳の中には
その当時のレンガ並木の街角に立つ
青い瞳をした
金髪の人たち

そしてその場所でそんな人たちが
頭を悩ましていたであろう
当時の事情らしきものが
我々の脳内にイメージとして
浮き彫りにされる

その間当然のことながら
そのことに関する我々の認知には
日本語以外の言語は
介在していない

文章日本語の列記のみで
我々は
モームの人間の絆を読むことができるし
シェイクスピアの
ハムレットやオセローなどの悲劇を感ずることができるし
はたまた孔子や老子のなどの
深遠な哲理をも学ぶことができる

千年の歴史にたゆたう
枕草子や万葉集にも触れることができるし

夏目漱石の坊っちゃんや草枕などの
明治日本の空気感の中すらも
気軽に逍遥することができる


何度も言うようだが
そこには英語も中国語も介在していない


現代日本語に翻訳されて
その内容は現在に生きる日本人の我々に
しっかりと引き継がれてゆくのである


なんとも
この文章日本語というもの
素晴らしいとしか言いようがない


縦軸の歴史的時間や
横軸の世界的空間を超えて
文化文明というものが
縦横に伝播する瞬間に
我々は生きているのである


何んとも何とも

そんなことを考えると
本当に
小学校から高校にかけて
基本的な素養を教授してくれた
鹿児島の先生方に感謝感謝である


そんなことをかんがえて
図書館を歩いた

図書館という場所は
本当に人間の文化の宝庫かもしれないと思った


人間悩みは尽きない
しかしその人間には
長い長い歴史的な歩みがある
それはいうなれば歴史的財産である


そんな歴史的財産は
当然ながら現代に生きる我々に
何かしらの
生きる上でのヒントを与えてくれる


そんな歴史的財産に
どうやったら出会うことができるのか


文章日本語にしっかりと翻訳されて
我々の前に何にも隠し立てすることなく
横たわっているのである

ただ我々がそのことに
気づくことができるかどうかである


いつも歴史は緩やかに微笑みながら
うんうんと頷いて
悩み多き我々を
元気づけてくれているのである



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