2010年3月22日月曜日

何事もただ生きてそこに在るだけ

高知の桂浜には始めて行った

太平洋を真向かいに
がっぷりヨツで対峙する感じがして
大いなる波濤に一人たたずむと
己が胸の内にある静かな炎が
ほのかに再燃する感じがして
何時しかこぶしをきつく握りしめていた

後ろを振り向き
はるかに望むと
龍馬像が胸元に手をやり
茫洋として海を直視し
何かしらささやきかけるようである


静かに桂浜にたたずむ

いろいろな想念が
去来しては
去りゆく
あたかも打ち寄せてはひきゆく
白波のようだ


といえどこのような
何かしら胸に熱く感じ入ることは
実はこちら側の
勝手な想像にすぎないといえなくもない


淡白にいってしまうと
桂浜といえどそのありようは
実は幾多ある陸と海の境界線にすぎない

そこには何らかの形而上的なものは
片りんすら存在しない

ただそこに砂浜と海が在るだけなのである


そんなことを静かに感じ始めると
世のことどものことも
もしやと
思われはじめた


たとえば
高知という一つの地域にいったとしても
こちら側に何の想いいれもなければ
そこは単なる日本の一田舎地域でしかありえず
よもや東京の人工的な文明都市と比較でもしようものなら
何ともつまらない場所としか
感じられないに違いない

龍馬脱藩の道とて
冷静に眺めれば
実は太古の昔から変わらぬ
森林の一つにしか過ぎえず

そこに何らかの思い入れを観じ
その山川草木に形而上的な意味合いを付与するのは
実はそれを観る人側の方にこそある

となれば隣で見ている
外国の夫人が感じている林道と
私が見ているその林道は
その外観はもしや同じだと譲るにしても
その意味合いはおそらく雲泥の差であるに違いない

そうとなれば
そこに意味するものは
あたかも銭湯にある水風呂のごとし
と言わざるをえまい


何事もそこにただ生きて在るだけなのである

そこに意味合いを付与しうるのは
そこに立ちいるその時々の人の感興にすぎない


桂浜は龍馬のときから泰然として在ったであろうし
それは今も変わらずに在るにすぎない

伊予の松山にしたところで
そこにある自然や人工物の姿かたちは
そこにただ泰然と在るにすぎない

それを感じ入るこちらの側の気量次第で
いかようにもその意味合いは光彩を発揮するのである

物事のありようなぞは
何事もこちら側の思い入れいかんである

善悪も含めて
こちら側の裁量に全面的にゆだねられている

としたら
何かしらから恐ろしい感じがしないではないが
むしろ翻って考えてみると
こちら側に無限の力が与えられている
ということでもあり
そうと感じ入ればいるほど
何事に対してもモノの見方というものを
自在に変化させてみようと
少しくやんちゃな想念すら浮かんでくる

人生やはり捨てたものではないのである

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