高知の桂浜には始めて行った
太平洋を真向かいに
がっぷりヨツで対峙する感じがして
大いなる波濤に一人たたずむと
己が胸の内にある静かな炎が
ほのかに再燃する感じがして
何時しかこぶしをきつく握りしめていた
後ろを振り向き
はるかに望むと
龍馬像が胸元に手をやり
茫洋として海を直視し
何かしらささやきかけるようである
静かに桂浜にたたずむ
いろいろな想念が
去来しては
去りゆく
あたかも打ち寄せてはひきゆく
白波のようだ
といえどこのような
何かしら胸に熱く感じ入ることは
実はこちら側の
勝手な想像にすぎないといえなくもない
淡白にいってしまうと
桂浜といえどそのありようは
実は幾多ある陸と海の境界線にすぎない
そこには何らかの形而上的なものは
片りんすら存在しない
ただそこに砂浜と海が在るだけなのである
そんなことを静かに感じ始めると
世のことどものことも
もしやと
思われはじめた
たとえば
高知という一つの地域にいったとしても
こちら側に何の想いいれもなければ
そこは単なる日本の一田舎地域でしかありえず
よもや東京の人工的な文明都市と比較でもしようものなら
何ともつまらない場所としか
感じられないに違いない
龍馬脱藩の道とて
冷静に眺めれば
実は太古の昔から変わらぬ
森林の一つにしか過ぎえず
そこに何らかの思い入れを観じ
その山川草木に形而上的な意味合いを付与するのは
実はそれを観る人側の方にこそある
となれば隣で見ている
外国の夫人が感じている林道と
私が見ているその林道は
その外観はもしや同じだと譲るにしても
その意味合いはおそらく雲泥の差であるに違いない
そうとなれば
そこに意味するものは
あたかも銭湯にある水風呂のごとし
と言わざるをえまい
何事もそこにただ生きて在るだけなのである
そこに意味合いを付与しうるのは
そこに立ちいるその時々の人の感興にすぎない
桂浜は龍馬のときから泰然として在ったであろうし
それは今も変わらずに在るにすぎない
伊予の松山にしたところで
そこにある自然や人工物の姿かたちは
そこにただ泰然と在るにすぎない
それを感じ入るこちらの側の気量次第で
いかようにもその意味合いは光彩を発揮するのである
物事のありようなぞは
何事もこちら側の思い入れいかんである
善悪も含めて
こちら側の裁量に全面的にゆだねられている
としたら
何かしらから恐ろしい感じがしないではないが
むしろ翻って考えてみると
こちら側に無限の力が与えられている
ということでもあり
そうと感じ入ればいるほど
何事に対してもモノの見方というものを
自在に変化させてみようと
少しくやんちゃな想念すら浮かんでくる
人生やはり捨てたものではないのである
0 件のコメント:
コメントを投稿